私にとっての地域医療
(総合診療)の魅力

新潟大学大学院医歯学総合研究科 新潟地域医療学講座 地域医療部門特任教授 井口清太郎 新潟大学大学院医歯学総合研究科
新潟地域医療学講座
地域医療部門特任教授
井口清太郎
医学生は入学してきた直後に質問すると、何でも診られる総合医を目指す、という学生がとても多い。子供の頃に接した先生、テレビドラマの中で見た憧れの医師像は実は総合診療医や地域医療に関わる医師に最も近いのかも知れない。それが学年が上がるにつれて、臓器に着目するようになり、また大学内で触れる様々な情報に感化される中で、卒業する頃には、臓器に特化した専門医を目指すようになっていく。もちろんそれは一つの考え方であるし、臓器別専門医もその重要性は枚挙のいとまがない。でも、あれほど総合診療医を目指していた若者は皆、どこへ消えてしまうのだろうか。

新潟大学大学院医歯学総合研究科 新潟地域医療学講座 地域医療部門特任教授 井口清太郎 新潟大学大学院歯学
総合研究科
新潟地域医療学講座

地域医療部門特任教授
井口清太郎

医学生に時々話すのが医師人生全体を通じた過ごし方だ。一般的に25歳前後で研修医となり、65歳前後まで働くとすると、約40年の時間がある。この40年をどのように割り振って生きていくのかは個々人の自由だ。一つの専門を決めて、それを40年間やり続けるというのが最初にイメージしやすい生き方だ。だが実際にはそれほど順風満帆な道が歩めるわけではないと、40歳を超える頃に気が付いた。私が彼らに話すのは10年毎のキャリアチェンジだ。例えば最初の10年は専門を決めそれを極める時期、次の10年はその専門技術を用いて社会に還元する時期、次の10年は大学などの現場で後輩に伝える時期、そして最後の10年は医療全体のマネージメントをする時期だ。もちろん人によっては最後の20年を専門性に囚われない全人的な医療に捧げたいと思う先生もいるだろう。ここで重要なことはずっと同じで無くて良い、ということだ。その年齢に見合った生き方をさぐり、その年齢でなければ到達し得ない人生の味わい方を噛み締めながら探す人生の旅であっても良いように思う。医師のセカンドキャリアは、最初のキャリアに縛られることなく自由に考えて良いのではないだろうか。

本稿では、私自身が関わってきた地域医療の魅力をご紹介したい。
私自身は、新潟県の中山間地である十日町市の出身である。医師不足の著しい地域で、そのような地域の実情を鑑み、地域に貢献できる医師になりたい、地域医療に関わりたいと中学生の頃から考えていた。中学生時代、恩師の校長先生に呼ばれ「医師になりこの地域に帰ってくるよう」諭されたことも大きく影響している。結局、地元の新潟大学を卒業すると出身大学の医局に入り、腎・透析などを専門として最初のキャリアの10年を過ごしてきた。その後、縁あって新潟大学の地域医療を教える部署のポストを得て今に至っている。ちょうど2000年代中盤は地域医療の崩壊が叫ばれ、文部科学省が設定している医学モデルコアカリキュラムに「地域医療」の項目が新規で追加され、全ての医育大学で地域医療を教えるべきとの気運が高まっていった時期でもあった。恩師の教授は、私自身の中に内在する地域医療への希望を密かに感じ取り、この様な粋な計らいを用意して下さったのだと思うし、その事については今もって感謝の念に堪えない。2010年から地域医療教育を充実させるべく、様々な企画を開始し、新潟大学医学科の正規カリキュラムの中に地域医療臨床実習を盛り込んだのが大きな躍進となった。全国の医育大学に先駆けて地域での臨床実習を開始し、システム化したことで、様々な大学の地域医療部門と連携することもできた。2011年に全国地域医療教育協議会という全国の医育大学における地域医療教育部門の集まった会を設立し、地域医療教育の標準化を目指す活動も展開し始めた。この頃に出会った全国の地域医療に関わる俊英とは,その後も継続してお付き合いさせて頂き、また様々な学びをさせて頂いている。そこで巡り会った医師はどの方も人間性に富み、人間観察が長け、人生の師とも言えるような方々である。

患家での診療風景。時々猫の妨害にも遭う。

患家での診療風景。時々猫の妨害にも遭う。

その頃、たまたま学生がお世話になっていたへき地出張診療所の医師が病休したことで、その診療所のお手伝いをすることとなった。
2週間に1度の診療であったが、70世帯約150人が暮らす中山間地の出張診療所での経験は素晴らしいものだった。約7年の関わりの中で多くの村の方と知り合いになり、名字ではなく名前で患者さんを呼ぶようになった(山間地の集落だったので、同じ名字の方がたくさんいたことも理由)。また訪問診療も月に5〜8件と少ないものだったが継続して行っていた。
隔週の木曜日午後からの診療ということでバタバタしながらの診察ではあったが、少しはお役に立てたものと思っている。高齢化率が50%を超える限界集落の状況をつぶさに見る機会に恵まれ、美しい自然の中に身を置く地元の方々のお話を伺い、多くのことを考えさせられた。この診療所では老々介護の現場があり、一人で暮らしつつも、地域に密着した生き様の方を多く見た。80歳を超える老夫婦が支え合う姿は愛おしい。ある地区の最後の一軒になるまで暮らしていた老夫婦。夫が亡くなり、村を離れる時に見送った時は辛いものがあった。仕事の内容は、難しいものではなかった。介護保険主治医意見書は多く書いた。
夫に先立たれ一軒家に暮らすことが困難になり、そのため施設に入所する方も多かった。県外に暮らす息子夫婦と暮らすために、住み慣れた地域を離れていく人も多かった。そのため紹介状も多く書いた。意識障害を頻発し、病歴と聴診所見から大動脈弁狭窄症を疑い、一度精査を勧めてみたところ、確かに重度の大動脈弁狭窄症を認めた方がいて、診断を付けられたことにとても感謝されたことを覚えている。高度な医療機器がなくとも聴診器一本である程度のことはできるものだ、と改めて感じたりもした。もっともその患者さんは年齢からも手術適応とはならなかったのだが、それでもその後も数年、その方は外来に通ってきてくれた。域外から戻ってくる人がほとんどいないため、どんどん減って行く患者数に少し戸惑うこともあったが、こういう殿(しんがり)のような仕事も重要なものと心に決めて対応した。猫に診療を妨害されることもあったが、良い思い出となった。冬の積雪が5mにも達する地域であった。その積雪を乗り越えた先の患家に待っていてくれる人がいた。

見送った時は辛いものがあった。仕事の内容は、難しいものではなかった。介護保険主治医意見書は多く書いた。
夫に先立たれ一軒家に暮らすことが困難になり、そのため施設に入所する方も多かった。県外に暮らす息子夫婦と暮らすために、住み慣れた地域を離れていく人も多かった。そのため紹介状も多く書いた。意識障害を頻発し、病歴と聴診所見から大動脈弁狭窄症を疑い、一度精査を勧めてみたところ、確かに重度の大動脈弁狭窄症を認めた方がいて、診断を付けられたことにとても感謝されたことを覚えている。高度な医療機器がなくとも聴診器一本である程度のことはできるものだ、と改めて感じたりもした。もっともその患者さんは年齢からも手術適応とはならなかったのだが、それでもその後も数年、その方は外来に通ってきてくれた。域外から戻ってくる人がほとんどいないため、どんどん減って行く患者数に少し戸惑うこともあったが、こういう殿(しんがり)のような仕事も重要なものと心に決めて対応した。猫に診療を妨害されることもあったが、良い思い出となった。冬の積雪が5mにも達する地域であった。その積雪を乗り越えた先の患家に待っていてくれる人がいた。

「雪を分け 患家(かんけ)訪ねて 会う人の 静かに笑うを 診るは嬉しき」
月に1度の訪問を心待ちにしてくれる人。十分なことができたかは心許ないが、それでもそこに居たことで少しは役に立てたのではないかと思う。この地域は医学生や研修医にとって地域医療や超高齢社会の実情を学ぶためには最適なフィールドだった。新潟大学にマレーシアの医育大学から見学に来る医学生・研修医を冬場に連れて行くと例外なく、驚いてくれた。

マレーシアからの医学生。背丈を軽く超える積雪に驚く。

マレーシアからの医学生。背丈を軽く超える積雪に驚く。

患家の前に大きな雪壁が立ちはだかる。

患家の前に大きな雪壁が立ちはだかる。

町の中心地から20km以上離れているいわゆるへき地であったが、継続して医療を提供できていた。かつては700人余が暮らし、小学校もあった。その過疎の村でも20年ほど前までは若い人が祭で盛り上がり、神社に夜店が出て賑わうこともあった。往事を知る人は、この衰退をどのような想いで見つめていたことだろう。山菜の多く採れる豊かな村であった。山菜の調理の仕方を学ぶこともあった。
春になるとこの地方特有の山菜を頂いた。晩秋には、診療所への行き帰りに見た紅葉の守門岳の初雪など思い出は尽きない。雄大な自然に囲まれ、時に自然の厳しさを実感させてくれた診療所での記憶は私の医師人生にとって欠くべからざるものとなっている。

ゼンマイは一度茹でてから干して揉むことで美味くなる。

ゼンマイは一度茹でてから干して揉むことで美味くなる。

紅葉の守門岳を望む。診療所は山を臨む高台にあった。

紅葉の守門岳を望む。診療所は山を臨む高台にあった。

2017年3月、その診療所は、患者数の減少などを理由に56年の歴史に幕を下ろし閉鎖した。私はその最後の7年間に携わることができた。次第に減りゆく患者数、縮小していく地域、著しく進む高齢化、寂しさは募るものだったが、その診療所の最後に関わることができたことを誇りに思う。この診療所を開設した先人の熱い想いにどれだけ応えられたのだろうか。診療所が閉鎖した後の残された患者さん達の行方や対応についても行政を交えて話し合った。職種を越えて一つの課題に取り組み、一定の方向性を出せた時の充実感は大きい。診療所の最後の日、まだ雪の残る寒い日だったにもかかわらず、村の人が多く出てきて下さり診療所前で花束を頂き、記念撮影をした。その写真は、私の地域医療を語る時に欠くことのできない一つの場面を提供してくれている。

最後の診療日、多くの村人から見送って頂いた(涙)。

最後の診療日、多くの村人から見送って頂いた(涙)。

現在、私は新潟大学にあって地域医療を教育する立場にある。多くの医学生と語り合う中で、地域医療の魅力、全人的に人を診る、地域を診ることの意義を伝えようとしている。また医師人生40年を考えた時、後半のどのフェーズで何をしようか考えている。中学生の頃に抱いた夢に自分は近付けているのか、叶えられているのか。私の故郷に貢献しなければ、何のために医者になったといえるのだろうか、との自問自答も続いている。変わりゆく社会情勢もまた自分自身に変革を求めているようにも思う。その時々でベストを尽くせるよう、考えて行きたい。自分の医師人生に様々な選択肢を与え、その時々に彩りを添えてくれる「地域医療」、その魅力は診療の現場にあっても、医学教育の現場にあっても、今なお尽きることはない。

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